- 宮本 ゆかり
- マイウェイネットワーク
- ビジネススキル講師
対象:ビジネススキル
このプログラムは主に就職活動中の大学生が参加していて、基本的にはネットを通じての通信講座。
毎日、学生から日経新聞を読んだレポートがメーリングリスト上に流され、それに対して、私達社会人のコメンテーターが大学生の見解に対してコメントを返信する、というシステムになっています。
一年365日、毎日コメントを書き続けていますが、いつになっても、文章を通じて伝えることの難しさを感じています。
そもそも「文章を書く」とは、「直線的な作業」です。
文字を通じて、伝えたい内容を直線的に描写する。
文章は、絵画や動画のように、平面的、あるいは立体的な表現はできません。
だから、自分の考えていることのある一部分を伝えている〔つもり〕だけで、あとは、読み手の判断に委ね、行間から意図を汲んでもらったり、想像で補ってもらうしかない面が多々あります。
こんな作業の繰り返しですから、基本的に、発信者と受信者の間に信頼関係がなくして有意義なコミュニケーションは成り立ちません。
信頼関係があればこそ、多少、発信側が言葉足らずだったとしても、「きっと、これはこういう意図があって、ここを重視して伝えたいのだろう」と、受信側が、好意的かつ建設的に受け取ってくれるのです。
それでこそ、お互いに楽しく、創造的なやりとりが可能になります。
しかし、時には、こちらの伝えたい意図や本質が伝わらない時もあります。
例えば、文章の途中に「ニートやフリーターにならないように・・・○○しましょう」と書いたとします。
こちらが重視したいことは、「どうしたら、この学生の才能が発揮されて遣り甲斐のある仕事につけるか?
そのためには、基本的にどんなことに注意したらいいのか?」という観点です。
ところが、そこを掴めない人は、ときどき「ニートやフリーターのどこが悪いんですか?」といった突っ込みを入れてきます。
悪いなんて一言も言っていません。
「一般的な傾向からみて、基本的な路線はこうでしょう。こういう考え方で物事に取り組んでいったほうがうまくいくんじゃないでしょうか」と提案しているのです。
でも、人によっては、自分の都合のよいように解釈して勝手に憤慨したり、文章のある一部分を取り上げ、例外的な事例を挙げては反論してくる場合があります。
ここが文章でのコミュニケーションの厄介なところです。
差異を突っ込みあうことが目的ではないのに、些末な部分を見つけては鬼の首をとったように指摘してくる人と付き合うのはとても疲れます。
若い学生のうちは、反骨精神をもってぶつかることは結構。
なんでもイエスマンで、自分の意見のない若者になっちゃダメです。
一方、素直さも大事。人の意見は、たとえ自分と異なる意見であっても、いったいは受け入れてみること。
そして何より、本質を見抜く目をもつこと。
それが大事かなと思います。