- 青松 敬明
- ビジネスナビゲーター
- ビジネスコーチ
対象:経営コンサルティング
- 戸村 智憲
- (経営コンサルタント ジャーナリスト 講師)
外国語を学習するときには、「聞く」、「話す」、「読む」、「書く」という4つの要素を習得しないといけません。
もちろん、それは母国語であっても同じことです。
どのレベルまで言語を習得するかにもよりますが、母国語の場合は、たいていは4要素全てを習得するようにし、外国語においては、「聞く」と「話す」というだけのケースもあります。
母国語においては、「聞く」と「話す」は人間の本能の延長で習得し、「読む」と「書く」は教育で習得してるのは、いつの時代でもどの国でも同じことでしょう。
かつての日本でも、日本語は「聞け」て「話せ」ても、「読む」と「書く」はできない人が多かったでしょうし、江戸時代からは、「読み・書き・算盤」と言われて寺子屋でも教育するようになり、「読み」、「書き」ができる人が増えてきたのだと思います。
一方、今までの日本の「英語教育」は、間違いなく「聞く」と「話す」よりも「読む」と「書く」を重視した教育であったと思います。もっと言うと、「読む」だけを重視していたような気がします。
日本が欧米列強に追い付いていくには、英語のみならず西洋言語によって記述された、政治や軍事に関する文書を少しでも早く解読することが必須であったのは間違いのない事実でしょう。
しかし、少なくとも、戦後数十年経った時点からは、こちらからの発信、つまり「話す」と「書く」を重視すべきだったように思います。
いずれにしても、ここで言いたいのは、「聞く」と「話す」を軽視し、「読む」を重視した教育が良いのか悪いのかということではありません。
ここにりんごがあるとします。
日本人は、その赤い物体を見た瞬間に「りんご」を思い浮かべます。
例えばアメリカ人は、その物体を見た瞬間に「apple」を思い浮かべます。
しかし、思い浮かべたのは、「りんご」や「apple」という文字で表される物体でしょうか?
そうではないと思います。
日本人の場合、思い浮かべたものを口で発するときは「りんご」と発音し、書くときは「りんご」と書きますが、口で発することもなく、字で書く必要もないときは、「りんご」という文字は思い浮かべてはいないでしょう。
なぜなら、もし「りんご」という文字で表される物体を思い浮かべているのであれば、字を知らない2歳の子供は「りんご」を思い浮かべることはできないということになるからです。
それは「りんご」だ、と繰り返し親や幼稚園の先生から言われて、赤くて丸い形をした物体が「りんご」という発音をするものであると刷り込まれただけのことです。
外で鳥が飛んでいるときも、空中を浮遊するような行為は「飛ぶ」という行為であると刷り込まれわけです。
要するに、全ての名称や動作や文法は、文字によって脳に記録されているのではなく、「なにか文字にはなっていないモヤっとしたもの」でしかないわけです。
その「モヤっとしたもの」を「りんご」というか「apple」と言うかが言語の違いです。
ある物体に対する「モヤっとしたもの」は言語によって大きな違いがあるはずはなく、人間である限り同じ「モヤっとしたもの」のはずです。日本人が「りんご」を思い浮かべるのに、アメリカ人が「豚」を思い浮かべるなんてことはありえないわけです。
そして、「その脳の中にあるモヤっとしたもの」を人間だけが持っている能力で表現した結果が、言語なわけです。
すると、言語を習得するのに重要なのは、その「モヤっとしたもの」と各言語の表現方法である「聞く」、「話す」、「読む」、「書く」を結びつける能力を鍛えることになります。
「聞く」、「話す」、「読む」、「書く」は、「モヤっとしたもの」という中心から放射状に枝分かれした「機能」というイメージです。
よって、「聞く」を鍛えるのも、「話す」を鍛えるのも、「読む」を鍛えるのも、「書く」を鍛えるのも、実は同じことで、「モヤっとしたもの」と各言語の表現方法を結びつけないかぎりできません。
(参照:「言語切り替えスイッチ」)
外国語、こうしてみたら(3)に続く