過去がなければ、あなたは誰だろう? あなたはどこにいるのだろう? - 文化・芸術全般 - 専門家プロファイル

舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
東京都
クラシックバレエ教師・振付家

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対象:文化・芸術

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過去がなければ、あなたは誰だろう? あなたはどこにいるのだろう?

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今回のメッセージはかなり奥深くて、私は好き♡なのですが、人によっては"見て見ぬ振りをしたくなる"という様なシビアさを感じる内容かもしれません。

 

でも根本解決にならない様な表面的な慰めや、甘い言葉の誤魔化しや、堂々巡りになるだけの安易なスピリチュアルより、

 

こういうシビアな洞察力と奥深さに真実を感じて安らげるという段階に到達された方達も、きっといらっしゃるのではないでしょうか。

(^^✿

 

 

 

ちなみに私自身は、自ら現役ダンサーを引退すると未練も迷いもなく決めた時、一度"死"というものを自分の中に体験した事がありますので、今回のOSHOのメッセージに触れた時は、すんなりと私の中に入って参りましたし、

 

人生の中で、そういう"死"を経験すると、今度は「生きる」という事に対して、今までとは違う感覚を持つ様になり、以前の私とは全く別人であるかの様に自分を感じる時があるのです。

 

でも多分これは、自分にしか分からない感覚、或いは同じ様な経験をした者でないと、なかなか解り得ない感覚なのかなぁと思っています。

( ・・) ~ ☆彡

 

 

 

OSHO

 

 

塵のように堆積した死んだ過去が、あなたの鏡のような意識の上につもりつづける。 

そうなったら、鏡のような意識は失われ、見えるのは塵だけだ。 

 

 

私たちは塵に同一化する。 

あなたは過去を持たない自分を想像できるだろうか? 

過去全体が壊されてしまったら、あなたはどうやって生きてゆくのだろう? 

 

 

あなたは何をするだろう? 

あなたは誰になるだろう? 

 

 

もし過去のすべてが取り去られたら、 

やがてあなたは自分が崩れ落ち、消えてゆくのを感じるだろう。 

過去がなければ、あなたは誰だろう? 

あなたはどこにいるのだろう? 

 

 

そうなったら、自分を何と同一化させるだろう? 

過去がなくても、あなたは依然として存在するが、あり方が変わる。 

 

 

実際、あなたは過去のあなたと正反対になる。 

過去全体が取り去られると、あなたはただの意識になる。 

そうなったら、あなたは自我(エゴ)ではありえない。 

 

 

自我とは集積された出来事、過去だ。 

それがあなたから取り去られると、あなたは新しいアイデンティティ(自己確証)を得る。 

あなたは、まさにあらゆるものを映しだす鏡のようになる。 

 

 

ひとたび自分自身が障害物であることを自覚すれば、何をする必要もない。 

この自覚そのものがあなたの古いアイデンティティを壊してしまう。 

そして、古いアイデンティティが完全に壊されるとき・・ 

 

 

あなたの真の実存とあなたの記憶のあいだにギャップがあり、 

あなたの自我とあなたのあいだに空間があるとき、その空間のなかで爆発が生じる。 

その空間のなかで爆発が起こる! 

 

 

この爆発はどうあがいても知的に解釈することはできない。 

理解しようとすればするほど、ますますわからなくなってゆく。 

だから、そのことで力まずに、ただくつろぎなさい。 

そして、私を理解しようとしないこと。 

 

 

それよりも、私が言っていることをあなた自身の内側で感じ取りなさい。 

あなたは過去だと私が言っても、その言葉を鵜呑みにしないで、 

それが本当かどうか考えてみるがいい。 

 

 

内側に入っていって、何であれ語られていることを感じ取りなさい。 

事実の観点でとらえなさい。 

それは事実だ。 

 

 

内側に入って、自分が過去であるかどうかを調べるがいい。 

私が言っていることが本当に事実であるかどうかを調べるがいい。 

あなたの内側に過去以外のものが何かあるだろうか? 

 

 

あなたは死んだ過去にすぎないのだろうか? 

それとも、あなたの内側にはほんのわずかでも 

過去とつながりを持たない生きた別の何かがあるだろうか? 

それは何だろう? 

 

 

自分自身のなかに閉じ込めることはできない。 

なぜなら、「私」は限られているからだ。 

過去は有限なので、限定することができる。 

 

 

過去は限定することができる。 

それは起こったことであり、有限だ。 

 

 

だが、あなたの内側にある何か、過去ではなく今ここに属しているものを 自覚すれば、

たとえ過去全体が破壊されても、その何かは依然として存続する。 

過去が破壊されても滅びずに存続するものがあなたの内側にあるとしたら、 

それはまさに純粋な意識、鏡のような意識だ。 

 

 

そのとき、「あなた」はそこには存在しない。 

あなたは、あらゆるものを映しだす鏡にすぎない。 

そうなったら、あなたは自分の自我と自分自身のあいだにある間隙を感じるだろう。 

あなたは空間を感じるだろう。 

 

 

この理解、この自覚のなかに留まることができたら、それは瞑想になる。 

この理解と自覚のなかに、あなたの真の実存・・あなたの意識・・ と

過去のあいだにあるこの空間のなかに留まることさえできたら、 

蓄積された存在、自我は外側の層にすぎなくなる。 

 

 

それは境界線にすぎなくなり、中心には純粋な意識がある。 

この純粋な意識、中心のなかに留まりなさい。 

 

 

それは容易なことではない。 

なかなか思うようにはいかないし、骨が折れる。 

というのも、私たちは一度もそこに留まったことがないからだ。 

 

 

私たちは常に表層に向かって走っている。 

私たちは常に表層に同一化している。 

私たちは表層で生き、決して中心で生きることがない。 

 

 

表層は自我だ。というのも、ものごとはすべて表層、周辺で起こるからだ。 

周辺は、あなたが他者と触れ合う点だ。 

私があなたを愛するとき、その愛の出来事は表層で起こる。 

あなたの表層に触れたり、接触したりできるのは私の表層だけだからだ。 

 

 

この世の出来事はすべて表層、境界線上で起こるため、私たちはいつも境界線上にいる。 

それは行為の領域だ。 

だが、実存は常に中心にある。 

 

 

このギャップ、この空間のなかに留まり、自分自身であることができたら・・ 

表層ではなく、中心にあることができたら、

表層を死んだ過去、表面、 肉体にすぎないものとして自覚することができたら・・

「あなた」は失われる。 

 

 

私はこの肉体のことを話しているのではない。 

「身体」と言うとき、私は自我を指している。 

 

 

この空間を知的に解釈したり、論理的に理解したりするのではなく、 

実存で感じ取るとあなたは居心地が悪くなり、あたかも死んでゆくような不安に襲われる。 

あなたはいつも表層に留まっていたからだ。 

それがあなたの生だった。 

 

 

それゆえに、中心に戻ってゆくと、死んでゆくような気分になる。 

今現在は表層があなたの生になっている。 

あなたはそれ以外の生を知らない。 

あなたはまるで自分が沈み、死んでゆくような、窒息するような気分になる。 

 

 

マインドは言うだろう。 

「表層に戻るんだ。生はそこにある」と。 

 

 

表層に生はない・・あるのは行為だけだ。 

あることではなく、することのみがある。 

何もしなくてよいときに、何もしないでいるのがひじょうに むずかしくなり、

そのままでいることができなくなるのはそのためだ。 

 

 

あなたは何かをやりはじめる。 

新聞を読むかもしれない。 

ラジオをつけるかもしれない。 

あなたは何かをする。 

あるいは、何もすることがなければ、眠ってしまうかもしれない。 

 

 

だが、無為の状態に留まるのは、もっとも骨が折れることだ。 

ほんの片時もあなたは無為の状態に留まっていない。 

 

 

だが、存在は無為の状態に留まることができる者たち、 

中心に留まることができる者たちだけに開示される

 

 

 

 

 

私達が大騒ぎしながら日頃味わっている喜怒哀楽というものは、

もしかしたらこの雲の様なものなのかもしれませんね~。

(^^;

 

 

 

 

今回語られている様な意識に達した方達は、その人の持つ本質を見抜く力を持った方々=鏡となられた方々とも言えるので、

 

だから"自我=エゴ"というもので自分の表面を厚く覆っている者からは、勝手に疎まれたり怖がられる様な存在になってしまう様なのですが、

 

心の綺麗な人間は、そういう人を通して自分が鏡に映し出されても、自分の姿を怖いとは感じないものであり、むしろ安心感を得る様です。

(^^✿

 

何故ならそういう存在は「最初から自分の眼で本質を見てくれている存在」なので、他者による影響などでブレる事がないので、逆に信頼を得られるからなのでありましょう。

( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡

 

 

 

単に人を甘やかすだけの存在は、居心地は良くても尊敬はされず(※そういう心理の裏には、本物の愛というものを履き違えた媚び=相手から愛してもらいたいというエゴが隠されているからです)、

 

遅かれ早かれ、いずれは甘く見られて飽きられてしまう存在になってしまうという、何とも皮肉な側面を持つものですが、

 

それは何故かと言うと、人間の本質には生まれ持って「成長し続けたい」という意識を根本に持っているからであり、故に「自分の本質を理解し、自分を成長させてくれる人」というのは、「生きる喜びを感じさせてくれる存在」でもあるので、

 

そういう存在であれば、どの様な関係性であれ、お互い"飽きる・飽きられる"という事がなく、素晴らしい人間関係を維持できるのだと私は思います。

(*^^*) ~ ♡

 

 

 

ただ「あなたの為」というお化粧をしながら、「自分の為に相手を変えよう」とする人には、私達は何らかの違和感や不快感を本能で感じるものですので、それがバロメーターになりますし、(※経験者は語る)

 

根底に「本物の愛」が存在する時は、「自ら気付く」という覚醒を促すものなので、その様な重苦しいものや押し付けがましいものは感じないものなのですね。(※経験者は語る!笑)

 

本物の優しさを持つ人とは、「自分の本質に気付かせてくれ、喜びと共に自分を成長させてくれる」という存在でもある為、

 

自分の本質を見失い、自分を客観視できなくなっている時(※自分に対しての過大評価=傲り=傲慢、もしくは過小評価=卑下=隠れ傲慢)に厳しい事を言われたとしても、

 

もしそういう真の優しさを持っている存在ならば、私達は素直にそういう方からは本物の愛を感じ取るものなのだと思います。(経験者は語る~~~ッ♪笑)

 

そしてそういう存在は、「相手の自由と喜びを、自分の事の様に一緒に喜んでくれる人」でもあるのです。

(・・)

 

 

 

他者への嫉妬や競争心というものから解放される"真の心の自由"とは、自分や他者の本質や役割りというものを謙虚に知った時にしか得る事はできません。

 

真の愛を持った人とは、自分を見失う事で自らをがんじがらめにしている人達を、その苦しみから解放してあげたいという「全ての人に対する優しさ」を持った人なのですが、そういう事が見えていない人達からは、時に誤解されてしまう存在でもあります。

 

でもそういう方達というのは、観えている故に媚びがなく「相手から嫌われる事を怖れない」という信念と強さも持ち合わせているのです。

 

ちなみに本物の愛が存在する時は、例え時間がかかっても「全体が良い方向へ向かう」という結果に成って行くので、それもバロメーターになります。

(^^✿

 

 

 

 

 

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(東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ

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長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年