あぁ勘違い!人間あるある「他者を気遣う時に、自分の感覚を基準にしてしまう事から生まれるお節介」 - 文化・芸術全般 - 専門家プロファイル

舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
東京都
クラシックバレエ教師・振付家

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対象:文化・芸術

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あぁ勘違い!人間あるある「他者を気遣う時に、自分の感覚を基準にしてしまう事から生まれるお節介」

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皆様は日頃、何に"楽"や"居心地の良さ"をお感じになりますか?

(^^✿

 

私が思うに、それは「人間の成長度=知性」により感覚が変化して行くものではないかと思うのですが、世の中の多くの方達は「自分の感覚を基準にして相手を推し量る」という事を"相手への思い遣り"であると勘違いされておられる方達で溢れ返っている様に思います。

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例えばこれは一つの例ですが、「キチンとする事が窮屈」「努力をするのは面倒でしんどい」などと感じている方達は、そういう自分の感覚を基準として、相手の事を自分の主観から憶測で考える為に、実際にキチンとしている人や努力家の人を見ると、無意識に相手に自分を投影してしまい、

 

頭の中で相手を自分と同じ様な人間である様に勝手に置き換えてしまうが故に、「そんなにキチンとしなくても良いのに」「そんな大変な事をしなくても良いのに」「もっと楽にすれば良いのに」という様なアドバイスをしたりするのが"相手への親切"であると思い込んでいる方がとても多い様に思います。

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勿論「表面上は人目を気にしてキチンとしているが、実は本音は面倒くささと窮屈さを感じていて疲れている」という方達に取っては、そういうアドバイスは有り難く、そう言ってくれる相手を「優しい人」と感じる事でしょう。

 

でも世の中には、「キチンとする方が気持ち良くて楽♫」「キチンとしている自分が好き♡」「努力する事は大変だけれど、それが楽しい♫」「そうしていないと自分に気持ちが悪くて逆に不快になる」と感じて生きている進化した人種もいるのです。

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何故"進化"というかと言えば、肉体という不自由なものを持つ私達人間は元々は皆怠惰であり、或る程度努力・精進というものを人生で経験しないと、そういう「大変(面倒)な事を楽にこなす・楽しむ」という域に達する事は不可能だからです。

 

そして考えて頂きたいのは「そういう進化した生き方をしている方達に、先述した様なアドバイスを差し上げたとしたら?彼らは一体何を感じるでしょうか?」という事です。

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勿論逆のパターンもあります。(※世の中にはこちらのパターンの方が多い様にお見受け致します。何故なら私達人間の本質とは"怠惰"ですから♫ 笑)

 

それは、「キチンとする事が気持ち良くて楽」と感じている方達の中には、自分から見て"いい加減"な人間や、"だらしなく生きている"様に見える人間に対して、

 

「もっとキチンとした方が良いよ」とか、やはり自分の感覚を基準にして"相手に取ってお節介なアドバイス"を与えたがるという方も結構いらっしゃるのではないかという事です。(※但しこちらのケースは相手に成長を促す訳ですから、一概にお節介とは言えないかもしれません)

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…と、これはあくまで一つの例に過ぎませんが、世の中にはこの様に「無意識に相手に自分を投影する」という「相手の事を思った"つもり"のアドバイス」というものに溢れていますね~。

 

せっかく相手の事を思って親切にしたつもりのアドバイスが、相手に取っては「表面的な優しさというお節介」に過ぎないという様な、そういう残念な"思い遣りのすれ違いケース"も、世の中には非常に多い様に私には感じられます。

 

そして何より、そういう事に気付いていない人間が多い事に、私は驚かされるのです。

\(◎o◎)/!

 

こうして観てみると、私達は"かなり独り善がりな判断"を、自分で気付かずに相手にしているという事なのですが、であるにも関わらず、多くの人は「自分は親切な人間である」と無意識に信じて疑わないからこそ、親切という名の「相手に対して想像力に欠けたお節介をしてしまう」という事も生まれてもいるのです。

 

だから「相手は自分とは違い、"キチンとしている方が楽""努力する事が楽しい"と感じているかもしれない」とか、「相手は昔の自分の様に、まだ"怠惰にしている方が楽"と感じる段階にいるのかもしれない」という事に、お互い全然思いが及ばないという現象が起きてしまうという事なのでしょう。

(^^;(^^;;

 

前者は「自分の中に無いものは、他人の中に見る事はできない」というケースですし、後者は「過去(※記憶の無い前世含め)自分もそうだったという事を忘れて、つい上から目線になってしまう」というケースですね~。

(^^;(^^;;(^^;;;

 

 

…え?「そう言うあなたはどちらでしょうか?」ですか?(笑)

 

一応私も人間として成長し続けており(笑)、現在の私は「その人の成長度合いや性格により、自分が心地好く感じるやり方や生き方は違う」という事を深く理解できておりますので、

 

自分に取っての「心地好い自分流のやり方」、強いては「自分の生き方」を、相手に求められている訳でもないのに、こちらからアドバイスする事は無駄になる事が多いという事も熟知しています。

( ・・) ~ ☆彡

 

ですので、そこから「自分の感覚を基準にして他者の事を考えたり、自分では気遣ったつもりになっている」という事に全く気付いていない方達というものが良く観える訳なのですが、

 

そういう方達に見落とされる事として、「キチンとしている事が楽」「努力する方が楽しい」と感じられる様になった方達の持つ"人生の歴史(努力と実践)"というものがある様に思います。(※段階の進んだ方達は、ご自分の誇りの為に、自分の通って来た人生の歴史も観る必要もあります)

 

人によっては、これは"見落とされる"というより、「自分にはそういう資質が育っていなくて、経験が無いから理解できない」という事であるのかもしれませんし、

 

又自分に取って「厳しい」と感じるものでも、段階の進んだ方達に取って見れば「厳しくも何ともない当たり前の事」であったり、「そうしている方が楽で充実する」「そういう環境の中に生きる事に喜びを感じる」というものであったとしたら、それぞれの理解や受け止め方は、又全然違って来るという事ですね。

 

これは、或る人には「苦しい修行」と見えるものでも、或る方達に取ってはそれは全然苦に感じない「能動的な楽しい努力」であったり、「充実感から生まれる喜悦感」を感じられているものであったりするという事なのですが、

 

そういう奥深い経験を人生で持った事が無い方達に取っては、やはり自分を基準にして考える為に「そういう発想や想像力が持てない」という事になる訳で、

 

少なくともそういうものを経験した方でないと、多角的にものを観るという様な深い理解ができないという事です。(※怠惰は私達人間の本質なので、逆パターンは無いのです)

 

これは過去世含めて「実践経験値が豊富な者」の方が深く広くものが観れる様になる分、人間というものに対しても理解も深くなる訳で、

 

それは仏教的な表現で言う所の「正見(正しくクールに真実を観る)」というものであり、それを得た者は多角的に自分と他者をクールにシンプルに観察できる様になる為、「他者に対して劣等感を持たない=嫉妬しない」という事にも繋がって行くのです。

 

これは「努力しない者が、努力する者に対して劣等感や嫉妬を持ったり、勝手に鬱陶しがったりする」という事はあっても、「喜んで楽しみながら努力する者が、怠惰な人間や、ぬるま湯の中で楽に生きたがる人間を羨ましがったり嫉妬する」という事は無いという事からもお分かり頂けますでしょうか?

 

いつの時代も人間は常に「一芸に秀でた人間」とか、「どの様なもの(道)でも努力し続ける事=或る種の修業を積んだ人間」に、自然に憧れや尊敬の念や嫉妬心を持つという事実があるのは何故なのか?という事を、私情を交えずクールに観察してみて下さい。(この逆は無いというのも然りです)

 

自分の経験不足から生まれる"他者への想像力の欠如"や"分かった気になる傲慢さ"や、そこから生まれるものの見方"邪見"から生まれる自分の中の「(本来は持たないで良い)コンプレックスから来る嫉妬心や闘争心」等を取っ払って、

 

子供の様な曇りのないシンプルで素直な感性で、物事や自分含めた人間を観る事は、人として謙虚さを忘れない為にも私はとても大事な事ではないかと思います。

(^^✿

 

「自分にできる努力を怠るが故に、表面的にしか物事を見れない人」「自分の人生経験値からしか相手を量れない人」ほど、「精進・努力をして得られた資質や才能を持つ他者」に対して劣等感や闘争心を持ちますので、ご自分や他者を観る時のバロメーターにされると良いでしょう。

 

又、他者から見ても「凄い努力家である」「立派な生き方をしている」と見える方であるにも関わらず、もしそういう方が「自分と違う資質や才能を持つ者に嫉妬する」というのであれば、

 

そういう方は、その対象になる他者の持つ哲学や生き方に対して批判・批評されるのではなく、そういうものが気付かせてくれた「自分で気付いていない、自分の中の消化されていない"怒り"や"劣等感"」というものと向き合う事を先決される方が、

 

「本来持たないで良いコンプレックスや嫉妬心」や「常に他者より自分を優位に見せたい病」を持つが故に、絶えず苦しむ自分からの解放に繋がります。

☆_(_☆_)_☆

 

 

 

 

…ま、この私のアドバイスも、或る方に取っては親切にもなり、或る方に取っては要らぬお節介になるのでしょうけれど(笑)、でも私は自分を表現する事と、他者にどう評価されるかという事を怖れない質なのであります♫

 

受け取り方は皆自由~♫ 勿論私も自由デス♡

(^^♫

 

 

 

 

 

「どうして人間て、シンプルな事をややこしくするのが好きなのかしら?」

「それは、ハートを忘れたエゴという頭で考えるからさ」

 

な~んて会話されていたりして~~~。(笑)

(・_・;)

 

 

 

あと、この世で良く誤解されるものの中に"厳しさ"と表現されるものがありますが、

 

「長い時間をかけて一つの道を極める」という事に、喜びと充実感を感じるという生き方を選択している人間に取っては、「努力する事が当たり前」「厳しいのが当たり前」…というか、そもそも努力をする事に対して「苦しい」とか「厳しい」とは感じていないのですね。

 

それは「能動的に自分が選んだ道」に生きているので、そういう経験を持たない方達が考える様な苦しみが伴うものではないという事です。

 

これは長年の精進と実践的な努力から、「普通の方達が大変と感じる様な事を、普通にこなせる様に成ってしまう」という才能を得られるという事もありますが、多分それは「持って生まれた気質」というものが大きい様に私は思います。

 

「持って生まれた…」と言うと、やれ差別だ、お前は傲慢だと勝手に怒り出す方達がいらっしゃる様ですが、私は自分の事を言っている訳ではなく、

 

その真意は、「私達人間が何回も何回も生まれ変わる中で、努力し精進する事から得られた資質」というものに対する視野が欠けていらっしゃるから、そういう感情が生まれるのではないでしょうか?という事です。

 

「最初から強い人間などいない」様に、「努力もしないでいきなり才能をもらう」事や、「持っている才能を自分で生かす=精進し努力する事を苦と感じない=精進する事に喜びを感じるという資質を授かるという事は、それ相応の努力無しでは有り得ない」という条件は、どの人間にも平等に当てはまるという宇宙の法則を思えば、

 

私達は他者を観る時に、その感じ方も変化してくるのではないでしょうか?(そういう意味で、お釈迦様は「嫉妬や闘争心は病気である」と諭されたのだと思います)

 

自分の努力と精進で得られた才能を沢山持たれた方ほど、自力でこの世を楽しい世界に変える力を持ちますし、それは沢山の人間に大きな影響力を持つパワーにもなります。

 

彼らは自分の持つ豊富で奥深いコアな経験から、「才能」というものの裏に隠れている"表裏一体として存在するもの"に対する理解や想像力が深く持てる様になるので、

 

同時に「他者の個性と才能に対する敬意の念」を素直に持つ事ができる素敵な方達でもあるのです♡

 ☆_(_☆_)_☆

 

 

 

 

 

 

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(東京都 / クラシックバレエ教師・振付家)
舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ

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長年プリマとして国内外で活躍。現役引退後は後進の指導とバレエ作品の振付けに専念。バレエ衣裳や頭飾りを作り続けて得たセンスを生かし、自由な発想でのオリジナルデザインの洋服や小物等を作る事と読書が趣味。著書に「人生の奥行き」(文芸社) 2003年