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中舎 重之
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閲覧数順 2016年12月07日更新

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京都:蔓殊院門跡

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               まん  じゅ いん  もん ぜき               

          蔓  殊  院  門  跡






          京都市左京区修学院一乗寺竹ノ内町が住所です。
         


     天台宗延暦寺派に属する門跡寺院。         

     初めは比叡山西塔にあって東尾坊と号した。     

     天仁年間(1108~1109)に忠尋大僧正が     

     寺号を蔓殊院と改め、北野天満宮の別当職を兼ねる         

     ようになり、葛野郡北山の地に別院をかまえた。     

     文明年間(1469~1486)に伏見宮貞常親王         

     の息、慈運法親王が入寺して以来、門跡寺院となり、         

     代々、法親王が院主となり、竹の内門跡と言われた。


           小書院と八窓茶室が重要文化財に、小堀遠州好みの         

     枯山水庭園が名勝に指定され、絹本着色黄不動像と         

     色紙墨書古今集は国宝です。         

     襖絵は狩野探幽の筆と伝えられています。








      洛北蔓殊院を訪ねた。蔓殊院、それが何処にあるかを知る人は   

  少ない。洛北一乗寺、宮本武蔵の決闘のひとつ「一乗寺下り松」   

  と云えば分かるかも知れない。   

  そこから数丁、東北に進んで修学院離宮に行くまでの山麓が  

  竹ノ内町と呼ばれ、昔は竹ノ内門跡として相当に有名でした。   

  門跡寺院と言えば、格式が高く尊崇されるべきお寺です。   

  ここに蔓殊院に関する一文がありますので、以下に記します。


      「そもそもの始まりは千百年の昔、天台宗の開祖伝教大師が  

  比叡山中に草創された。その数代の後、是算法師という名僧の   

  時に村上天皇の御帰依あつうして勅命により京都北野に菅原道真   

  を祭神とする神社を建立した。それより蔓殊院が北野神社の別当   

  となり真俗両面の事を司った。そののち忠尋大僧正の時、北野   

  別当の事務管理の必要から、今の地・洛北に蔓殊院を建設した。     

   寺院の維持経営の面からは、都に近い場所に拠点を持つ必要   

  があった。僧侶の学問修養の本拠地は深山のなか幽谷の奥が良い。  

  首都の機能は其れほどに強く、蔓殊院は時代の流れと共に叡山  

  の本院より、洛北の別院の方が優勢になって行く。     

    天満宮信仰が鎌倉時代末から大いに盛んになり、室町時代の    

  足利将軍三代義満も軽視出来なくなった。そこで北野神社の別当・  

  蔓殊院を幕府の東側の地に迎えたと言う」


      それが、徳川の時代・1656年に現在の地、すなわち旧の  

  蔓殊別院に復帰したのには、大いなる理由がありました。  

  これから、それを探ります。     

    豊臣秀吉が関白になる。古来、摂政とか関白に推される者は、   

  藤原一門に限られています。 平清盛は太政大臣、織田信長は  

  右大臣まででした。然るに豊公は関白になりました。  

  朝廷としては、天皇の直裁による政権を待望していたのであり、   

  天皇親政の実現の望みが絶たれてしまいました。朝臣の心に不平   

  と不満が底流した。それ故に秀吉は、後陽成天皇の皇弟たる智仁  

  親王を自分の猶子として迎えました。それに莫大な御料を附けて   

  洛南・桂に別荘さえ営み始めました。     

    親王を擁抱して、他日、禁裏と対立した場合の異変に備えを   

  用意したのが豊臣家です。


    徳川家は智仁親王の御兄である蔓殊院門跡の良恕法親王に手を   

  差し伸べて何くれとなく心を遣いました。     

   豊臣氏が織田氏の後継者たるを自認している以上、比叡山は  

  豊臣氏を仇敵として見ます。それならばと徳川氏は比叡山へと   

  手を伸ばしたのです。それが蔓殊院との繋がる理由です。     

    然るに、秀吉の死後、関ヶ原の戦いに始まり、大阪夏の陣で  

  徳川家康が勝利し、天下が家康の手に入りました。1603年  

  江戸に幕府を開くと、上野に東叡山寛永寺を建て、此処に親王  

  を迎え輪王寺宮としたのです。西の叡山に対して東の叡山です。   

  ここまで来ると、家康の蔓殊院に寄せていた好意も徐徐に後退    

  します。それを看取された法親王は、後水尾天皇に奏請して、  

  洛北の山紫水明たる旧地に還り、新たに堂宇を構築されました。   

  徳川に対する抵抗であり、挽歌なのです。   

  家康が今も人気がなく嫌われる要素が此処に見えます。


      その頃、智仁親王のためには桂の別荘が造営されていました。   

  資金豊富な智仁親王と、資金らしき物が皆無の御兄良恕法親王   

  の蔓殊院では、おのずと造りが違います。ですが法親王は此の   

  違いを埋めるべく、出来る限りの事をなさったと私は思います。  

  それは、私の幻想かも知れません。  

  だからこそ、その違いを意識して蔓殊院を参観したいのです。


      桂離宮が敷地の中央に池を配した回遊式庭園です。桂の用水源   

  は隠されており、池の水は静止しています。蔓殊院は池に替わる   

  ものとして枯山水で表現されます。水源は東山にあるが如く暗示   

  して、水はある程度の速さをもって流れているようです。   

  桂では静かな水を眺めるのに対して、此処では河の流れを遡る船   

  の構えであり、大書院方丈前の廊下は船の甲板になります。  

  水にせっする側の欄干は極めて低く、船縁に座って眺める船客が   

  わずかに肘を托する程度です。ですから此の前庭を鑑賞せんと  

  する者は必ず腰を落とすか、座るべきなのです。立ったままで   

  眺めるのは不作法であり、此の庭のねらいが掴めないでしょう。     

    座して縁側によって水上を眺める時、そこにある鶴島、やや   

  後方の亀島の二つが眼に入ります。その奥の遥かに見揺る樹 は   

  蓬莱嶋に他ならない。仙客が鶴と遊び、亀と睦める桃源郷です。


    大書院の内部に眼を転じます。此処の欄間に、いとど豪壮な   

  月の字崩しが見えます。桂離宮には、月字の引手、月字崩しの   

  欄間が有名です。桂の月字崩しは清澄にして女性的であるのに   

  対して、蔓殊院の月の字崩しは雄壮にして男性的なのが印象的   

  です。これは、両親王の性格の相違でしょうか。


      此の大書院のさらに向こう側に、鈎の手になって小書院が  

  あります。其処に渡る廊下の7~8間が、大書院の広縁の半分   

  にも満たない極めて狭い造りです。極端に狭いので、かえって   

  大書院の広縁と対比され、7~8間の廊下が十数間にも達する   

  長い廊下に見えます。狭小な敷地は桂の何十分の一でしょう。   

  狭い敷地での建物を雄大に見せる工夫が此処にあります。


      小書院にも、いろいろな夢があります。その最も大きな夢は   

  正面床の間にある左側の違い棚です。桂離宮の新書院は女御の   

  御殿と云われる通り、そこにある有名な「桂棚」は極めて複雑   

  で、いかにも女性好みです。それに対比するように蔓殊院の棚   

  にも似たような構想が見られます。     

    用材に黒檀・紫檀・黒柿のような珍木が使われています。   

  珍木の使用は桂も同じですが、中央に観音開きの棚がある点は   

  桂にはなく独創的です。     

    装飾に瓢箪の形が用いられいます。瓢箪の曲線は天正時代の   

  の人々に随分と好まれ、愛され、喜びを与えたようです。


       此の蔓殊院には、「八窓の席」という茶室があります。   

  当方は茶道を知らず、茶室建築にも疎いので此処はパスします。   

  蔓殊院には、フクロウの手水鉢を利用して、軒の天井裏に月を   

  照らす手法も有るそうです。銀閣寺でもそうですが建築の上で  

  夜間の工夫は当方の想像の中にしか存在しません。
   


    蔓殊院は交通の便が悪く、行き難い所ですが見るべきものが   

  多々あり楽しい時間を持ちました。



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