京都:大徳寺 芳春院 1 - 生涯学習 - 専門家プロファイル

中舎 重之
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京都:大徳寺 芳春院 1

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              だい とく じ    ほう しゅん いん               

         大 徳 寺 ・ 芳  春  院






          京都市北区紫野大徳寺町が住所です。


     臨済宗大徳寺派の大本山です。         

    龍宝山と号し、鎌倉時代の正和4年(1315)に         

    大燈国師妙超が開山となって一宇を建立しました。         

    正式には正中2年(1325)の創建です。      

    敷地は東西360m、南北440mで面積4万8千坪。     

    南北朝時代には五山の首位に列したほどの名刹です。
 


       芳春院は、大徳寺の塔頭の数ある中での一つです。         

    徳川時代初期の慶長13年(1608)に前田利家の室       

    芳春院が建立しました。開祖は玉室宋珀です。     

    境内1200坪に本堂、庫裡、書院があります。     

    庭園の中にある呑湖閣は前田家の霊朝なのです。          

    元和3年(1617)に前田利長が小堀遠州にはかり     

    建てたと伝えられています。         

    庭や泉池などの風致には見るべきもがあります。






       「寺に寺なし」の言葉は、妙に聞こえるでしょうが事実です。   

  古い時代の仏教、すなわち天台宗、真言宗から禅宗あたりまでの  

  寺院では「寺」と言えば、すれは本堂も塔も舎利殿も、なを僧坊   

  から東司までの建物、それだけではなく、境内から、そこに生活   

  している僧俗の人間まで、すべて含んだものを云うのです。   

  「寺」とは、宗教的活動をする一つの組織を総括しての言葉です。     

    大徳寺とは、東の門から西の門、南の入口から北の出口までの   

  広い地域が大徳寺であり、これが大徳寺という建物はありません。    

  普通、その中心にある堂宇を大徳寺だと錯覚していますが、  

  それは「本坊」であって、大徳寺の一部である寺務所にすぎません。


      大徳寺の境内には、種々の院・庵があり、それを塔頭(たっ    

  ちゅう)と呼びます。大徳寺に限らず、京洛にある禅宗本山には、    

  戦国時代から徳川時代初期の大名が建立した塔頭が、数多くあり   

  ます。大徳寺の境内にも、黒田長政の龍光院、石田三成の三玄院、    

  小早川隆景の黄梅院、細川三斎の高桐院、羽柴秀吉が信長公の  

  葬儀を大徳寺で賑々しく挙行し、菩提所としたのが総見院です。


      此には理由があるようです。   

  戦国時代において各地方の剛勇なる武士は、好むと好まざるとに   

  拘わらず、京に足を入れて自ら天下に覇を称えるか、でなければ  

  覇を称えた大名の下に入洛させられました。     

    この場合に困るのが宿舎です。手兵二~三百騎の寝る所です。   

  何分、戦国時代ですから自分の命は自分の腕で護るしかありません。      

    そうした場合に、自分の為の大きな寺院を建設しておけば、  

  兵を入れて、武器を納める事も容易です。   

  而して、表面は先祖の追福供養であり、将来の自己の菩提所との   

  名目が立ち、疑いを眼をそらさせたのです。     

    平時に於いては、一旦事ある時に備えての出先官憲であり、   

  外交においては、京洛の秘密を探る情報収集であり、他者との  

  情報交換と多岐にわたる拠点です。現代での大使館の働きです。


      大きい敷地に大きい建物がある寺院は、いざ戦争になると、   

  城を役割をして、大いなる威力を発揮する存在です。   

  豊臣秀吉が伏見桃山に城を築くと同時に、京都の経営に心を配り   

  直ちに市中にあった寺院を京極に注集せしめました。     


   今の寺町及び西寺町は、いずれも京都の郊外にあたります。   

  こうして置けば、戦乱が起き、敵が京都に侵入を計った際には、   

  真っ先に、此の寺町を押さえて敵に渡さなければ、進入した敵は、    

  寝る事も、食事を取る事も出来ずに進退を阻まれます。   

  万が一、此の寺町が敵に占領されたなら、寺町だけを焼き払えば、    

  侵入軍は都から撤退せざるを得ないでしょう。

  もしも、寺院が街の中に散在していると、全く始末に負えない

  結果になります。 秀吉の寺町経営の凄さがみえます。


      さて、大徳寺の起源に少し触れます。   

  六百年あまり前、有名な禅僧・大燈国師宋峰妙超(しゅうほう  

  みょうちょう)に時の天皇の花園帝が深く帰依され、国師の為に   

  一禅寺を建立されました。そののち後醍醐天皇が宸翰を与えて   

  勅願所とされ、南禅寺と並んで禅宗五山の上位に列せられました。   

  しかし、室町時代に足利幕府に疎まれ、五山の列より除かれて、  

  五山十刹の九位に寺格を下げられました。大徳寺は十刹の位を    

  返上し、林下(りんげ)と呼ばれる在野の禅寺として、独自の    

  宗風を昂揚しました。   

  応仁の乱に羅災し、諸堂の多くを失いましたが、一休禅師の働き   

  により復興されました。


      大徳寺の塔頭の一つに芳春院があります。芳春院とは、いとも   

  優しく、艶めかしい院号です。女性の香りがします。   

  百花燎欄のその中で、芳香を放つものは梅花です。ならば梅花を   

  芳春の名につなげたくなります。此処は梅花を家紋とする加賀の  

  前田家に関係が深い塔頭です。前田家は菅原氏の出身とするので、    

  梅が家紋なのです。


      加賀百万石の大を成し遂げた初代の藩公前田利家の夫人である  

  芳春院まつ、の名を取ったのでしょう。    まつ夫人のことを、述べます。     

    まつ夫人は、織田信長の家臣篠原主計の娘として生まれました。  

  四歳の時、前田利春の養女となり、他日 長男利家の婦たるよう   

  養育されました。まつ夫人十二歳に達した時、利家の妻になりま   

  した。時に利家二十一歳です。


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