京都:大徳寺 芳春院  2 - 生涯学習 - 専門家プロファイル

中舎 重之
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閲覧数順 2016年12月05日更新

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京都:大徳寺 芳春院  2

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      利家は元々が地方郷士の出身です。それが後に豊臣家の大老に   

  まで栄達した陰には、まつ夫人の内助の功があったのです。     

  越中の梟雄・佐々成正が、羽柴秀吉が徳川家康と小牧・長久手   

  で対峙している、その背後を突かんとして、越前に兵を進め前田   

  利家の支城・末森を急襲して来ました。利家の老将や幕僚は末森   

  が金沢より十里の地にあり、兵力において優る成正の軍を迎え撃   

  つ事には、反対しました。     

   此の時、まつ夫人は、利家配下の諸将を大いに励まし、「もし   

  不幸にして末森陥ちらば生還を期する事なかれ、自分らも諸士の   

  妻子と共に此の城に火を放ちて自害すべし」と決意をのべた。   

  利家、ここに大いに意を安んじ、末森へと急行し、敵を撃退した。   

   此の末森の一戦こそは、加賀百万石の第一歩を飾る運命の合戦   

  でした。 まつ夫人の此の快挙は味方は勿論、秀吉からも大いに   

  賞賛されました。後日、天下を統一した豊太閤が洛中に聚楽第、   

  洛外に伏見桃山城を建てると、まつ夫人は利家と入洛しました。   

  豊太閤の饗宴には必ず陪席し、北政所ねね夫人に従って、夫人の   

  社交界の中心的な存在になりました。ちなみに、当時のメンバー   

  の名をあげると、秀吉の奥方・北政所、秀吉の側室・淀君、細川   

  忠興夫人・ガラシャ、京極高次夫人・初、小野阿通などの烈婦   

  美姫の錚々たる顔ぶれです。


      ところが、豊太閤の死去により大変動が起きます。徳川家康の   

  登場です。家康が豊臣秀頼の大阪城を攻める段になると、豊家と   

  親しい関係にある大名に家康の厳しい警戒の眼が向けられます。   

  特に、豊家の大老筆頭である前田利長の去就を知るべく、家康は   

  加賀に兵を向け様としました。その事態を見て、まつ夫人は単身   

  江戸に往く事を決意します。息子の利長に語った言葉を記します。 

  「いざという時は、この母を捨てなさい」   

  母が子に覚悟を決めさせたのです。江戸に出た、まつ夫人は徳川   

  に対して、利長は些かも異心を挟むべき者にあらずと説きました。    

  そして、自ら人質として江戸に留まり、徳川家に忠誠を誓いました。    

  後の大阪冬に陣では、利長の弟・利常が三代目加賀藩主として、   

  家康の幕下に加わり真田丸にて戦いました。ついで、夏の陣では、  

  岡山口にて奮戦して豊家壊滅の端を開いたのです。   

  かくして、加賀前田の家は安泰であったのです。


      大徳寺西門より入り、本坊までの道は結構あり、まつ夫人の   

  エピソードを話すには都合が良かった。   

  芳春院へは本坊の横の狭い土塀の間を抜けて行きます。この間、   

  歩数にして僅かなはずですが、視覚から来る感じは距離を感じ   

  させます。此の錯覚は本坊の横の口から、芳春院の入り口迄の   

  敷石に有りそうです。此の敷石は、実に美しい眺めです。軽く   

  見ないで良く観て欲しいものです。     

   石の組み合わせによって、かかる美も生み出せるものかと、   

  心に響くものがあります。芳春院の門の正面に庫裡の妻面が整然   

  とした偉容を示してます。その前面に白壁の高塀があり、門が   

  通路を遮る所まで続きます。     

   此の「真の敷石」は、長さ三尺に幅一尺の板石を短冊を陳べた   

  ように並んでいます。洵に伸び伸びとして、実に清々しい直線の   

  美しさを魅せています。     

   敷石の話を少し記します。自然のままの石、河原石を集めて   

  敷石にした場合は「草の敷石」と云います。自然石に加うるに   

  切り石を以てした場合は「行の敷石」と呼び、切石のみで組ま  

  れた敷石が「真の敷石」と称します。これを真・行・草と呼び、   

  真の敷石があれば、格式の高い所と解釈して下さい。   

  また、その心構えを持って玄関を訪れる必要があります。


      芳春院を語る時、忘れて成らないのが、芳春院の方丈裏にある、    

  呑湖閣という高楼です。此の楼上から眺める、東山一帯の眺望は、    

  極め付きの素晴らしさとの事です。自分達は体験できませんでした。  

   その呑湖閣と方丈とを結ぶ渡り廊下は、実に見事で途中に一箇所   

  の待合所を設けて、脚下の泉水を味わうべくに用意されています。    

  特に、柱の材も小さく、高欄の組み合わせも繊細で、廊下じたい、    

  ゆるい曲線を描いており、待合い所の張り出しと相まって、女性   

  らしい、ほのかな色気があり、特別な雰囲気があります。   

   芳春院の名が、ここに漂っているかのような気がしました。   

  この日は、お茶の会があり、和服すがたのお嬢様がたが多数いら   

  しゃったのが、当方の精神に多少は影響したかも知れません。   

  しかし、当たらずとも遠からずで、芳春院の見どころは、この   

  渡り廊下にありと断言しておきます。

      この芳春院のそばに真珠庵があります。我が国の茶道の祖と    

  いわれる、村田珠光が作したと称する庭園があります。  

  珠光は喫茶の風を、茶の道にまで昇華せしめた人で、彼につづく   

  人々に、武野紹鴎、千利休、小堀遠州の名がみられます。     

  真珠庵はパスして、孤蓬庵へと急ぎます。孤蓬庵は大徳寺一山   

  から遠くはなれた西北の丘にあります。もうすぐで鷹ケ峰に続く   

  と云う場所です。     

   此の孤蓬庵に行こうとして、あらためて大徳寺の広さに驚き   

  ました。遥か向こうまで続く一条の道、爪先上がりの細い道、   

  三斎・細川忠興の高桐院の裏に空を覆い日光を遮る椎の老木、   

  木々が作り出すトンネルのような道、レールのように前方に   

  延びる敷石の道、道としてもすごく風格があります。


     坂道もやっと峠に来ました。すると、左手に小堀遠州の「孤蓬庵」   

  の門標が見えます。庵にしても、寺院としても、有り得ない気位   

  の高い門の構えです。いかめしい城門を思わせる門前であり、  

  その前方には深い壕があります。空壕らしいが、晩春の中に清々   

  しい冷気があり、雨なき日にも五月雨に濡れる思いがします。    

  壕には頑健そのものの様な石橋が掛かっています。気付かずに渡る  

  人が多いだろうが、此処の石橋こそは叩かなくても渡れる石橋です。  

  橋板の立派さもさる事ながら、橋の欄干を見ると、自分の眼を疑う  

  程の細心の強さに溢れています。     

   一枚の石の全体を、やや弓形に削り、更に下部中央にも弓形の   

  削りを入れています。幅の十分ある太い強弓をイメージして下さい。  

  それを、橋の両側に置き欄干として、壕に渡しているのです。     

   一見不用と思われる中央部下部の削りが、意外な効果を生んで  

  います。こうした窓が欄干にある事で、此の橋が吊り橋のように   

  軽く見せているのです。     

   橋の向こう側には、城の隅楼を思わせる石塁があります。そして、  

  太い、洵に太い破竹の遠州好みの垣根があります。芝居の舞台でも  

  見るような男の美しさがあります。竹垣、と云うよりも竹矢来です。  

  矢張り、此処は大名の寺であり、でなければ、この太さ、この強さ  

  は出せません。 遠州程の達人ならではの垣根です。


      折角、此処まで来たのですが、玄関の木標に「拝観謝絶」とあり、  

  後日の機会を待つ事にして、残念にも帰路につきました。


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