- 中舎 重之
- 建築家
対象:老後・セカンドライフ
酒匂川の話
神奈川県の西部には、県内第二の河川・酒匂川が流れています。
酒匂川の上流をたどると、西丹沢に源を発する河内川と、富士火山の裾野を 源流とする鮎沢川に分かれます。
これら二つの河川が合流する山北町の谷峨の河原では、河内川が運んできた白と緑の岩石と、
鮎沢川が運んできた黒い石とが、別々の川岸に分布しており、面白い光景を呈しています。
足柄平野は、酒匂川の下流部に発達した沖積平野です。
酒匂川は大変な暴れ川で、今までにも度々大きな氾濫を起こした事が記録されています。
現在の足柄平野は西湘の穀倉地帯として、水田が作られていますし、足柄梨やミカンの栽培も盛んです。
足柄平野は、水の豊かな土地です。
冨水・蛍田・飯泉などと水に関連した地名が多い事でも判ります。
江戸時代の初めの頃、この地を支配していた小田原藩は足柄平野を洪水氾濫から守るために、
河や谷の地形を利用して、春日森堤、岩流瀬(ガラセ)堤、大口堤を構築していました。
1707年(宝永4)12月16日、突然に富士山の南東斜面に新たな火口が開き、
大規模かつ爆発的な大噴火が発生しました。
噴火は突然でしたが、噴火に先立つ1703年に元禄関東地震が発生し、
さらに1707年10月には、宝永東海・南海地震が発生しました。
此の地震は、マグニチュード8.4にもなる巨大地震でした。
噴火は、開始から終了まで16日間という短い期間でしたが、火山礫や火山灰が主でした。
山麓では2m以上、酒匂川で80㎝、相模川で30㎝、多摩川で10㎝の降灰の記録があります。
この降灰が原因での洪水が、噴火の翌年1708年の台風時期に起きました。
その時、大口堤・岩流瀬堤の二カ所が決壊し平野の西側が氾濫しまました。
この氾濫後には大口堤は修復されましたが、岩流瀬堤は未修復でした。
噴火より9年後の1711年には、岩流瀬堤の未修復により、激流の直撃を受けた大口堤が決壊し、
酒匂川下流の村々に大被害をもたらしたのです。
噴火による降灰が上流からの大量の土砂流出を招ねき、河床が上昇していたのが原因です。
以後も1731年、1802年と95年間に亘り洪水が頻発しています。
噴火より38年経過した1745年の金井島村(現開成町)の年貢上納高は、
噴火前の1/3程度にしか回復していなかったとの事です。
富士山の噴火により、家屋も田畑も埋没した駿東郡59カ村が廃村になりましたが、
災害の大きさと根の深さは酒匂川の治水にこそあると思います。
中 舎 重 之
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