笹木 正明(キャリアカウンセラー)- コラム「ふるさと周南を離れた50年間の回想」 - 専門家プロファイル

笹木 正明
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ふるさと周南を離れた50年間の回想

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2016-05-24 13:51
本日71才の誕生日を迎えた。
私は大平洋戦争末期1945年5月、父親が当時勤務していた日新製鋼の社宅で生まれ育った。
1964年3月県立下松工業高校を卒業。自宅浪人による大学受験に失敗したので1965年4月慶応大学の通信教育部に入学する事になり、4月ある日の夕刻山陽本線徳山駅から東京に向け夜行急行で旅立たった。プラットフォームでは不思議な事があった。太華中学の数学の教師、野球部の監督としてお世話になった岡村恒夫先生がおられたのだ。浪人中で気の弱い私はご挨拶する事なく別れた。実家を離れ、人生の第一歩を歩み始めた。

50年前の出来事で今の自分の原点だった。先生との再会は20年後野球部の同窓会だった。当日は在学時の黒田校長先生も出席され、酒の席が盛り上がると岡村先生が歌を唄い、黒田校長は黒田節を踊られた。当時のチーム構成は浅田、末長選手と私は2年生だったが、彼らは3年生に混じっても遜色なかった。私は先生の判断で補欠にしてもらった。太華中学は3年生の崎重投手、浜辺捕手の名コンビで県大会優勝、ご褒美として富田林のPl教団本部で開催されたPlの全国大会に招待され、そこでもチームは優勝した。この時1イニング中継ぎ投手として起用された。
 
上京後、東京法務局に勤務していた岩男叔父の紹介で世田谷の松陰神社前にあった出張所に一年間アルバイト勤務した。メンバーは土川所長、大倉補佐、松本さん、青木さん等個性的な人達だった。そこでは時々宿直をした。中学2年の秋、父親の本社転勤により世田谷区の中学校に転校、日新製鋼の経堂社宅に住んでいた竹馬の友、島津幸男さんが東大生として時々顔を出してくれた。彼とは保育園以来の付き合い。NTT千代田支店長や上場会社役員等を歴任した後周南市市議、市長を務めた。何時も周南の行く末を考えている。
 
叔父は旧制下松工業学校1945年卒、働きながら中央大学法学部卒,法律関連の専門書を執筆、中大の生協で販売されていた。叔父と市川五郎先生は下工同期。 岡村先生は市川先生と広島大学の同期生で友人だった。その縁で3人は下松工業に推薦入学となった。
 
上京後、通信教育部での勉強は順調に進んだ。夏には登記所を休み夏期スクリーニングに参加した。但しこの年は他大学を受験した。不合格になった時点で 2浪になり翌年の編入試験を受けることにした。受験資格は総合教育科目(外国語2語種8単位を含む)30単位以上を取得する事。ドイツ語を除き条件を満たしていた。試験直前にドイツ語で認定試験を受けることになったが慌て者の私は時間を間違え試験を受けそこねた。
 
ここに至り1967年2月の慶応大学商学部2年次編入試験に焦点を絞ることにした。受験勉強にこだわらず幅広く勉強した結果、商学部2年次に編入出来た。その後1970年3月卒業、4月からいすゞ自動車勤務、2002年10月リストラにより同社退職。6ヶ月の研修を受け、市内の自動車部品会社に就職した。退職決定時、放送大学大学院に応募し合格した。修論のテーマは人材紹介会社で10年間で経験した転職相談の総括。
 
同窓会が終わった後の報告文で岡村先生は出席者全員について野球の技術や人物評定をされた。皆さん、文武両道で国立大、有名大進学者が多かった。
私はビジネスマンとして評価頂いた。翌年、学校を退職されるのでお祝い会を開催した時、浅田さんに図書券を渡してもらったところ、先生から丁寧なお礼の手紙を頂いた。
今年の年賀状で、浜辺さんから野球部の同窓会を開催すると記載されていたが、皆と再会を楽しみにしている。

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