大園 エリカ(クラシックバレエ教師・振付家)- コラム「「いつまでも乳離れできない大人」考察」 - 専門家プロファイル

大園 エリカ
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大園 エリカ

オオソノ エリカ
( 東京都 / クラシックバレエ教師・振付家 )
舞踊家(クラシックバレエ) 元プロバレリーナ
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「いつまでも乳離れできない大人」考察

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2018-02-24 11:13

皆様の周りには、年齢的には大人(熟年層と言われる様な方々)であっても、いつも自分から何かを発信したり人に指導をする時などに、「他者を持ち込む」というスタイルを好まれる方というのがいませんか?

 

何かを人に伝えたり教えたりする時に、「これは、〇〇さんが言っていた」とか「〇〇さんもそうだったから」と、自分以外の他者を使う方達、或いはそれを良しとされる方達の事です。

(^^;

 

こういうタイプの方は世間でも良くお見かけ致しますが、私は昔からこういうタイプの方達に触れると「自分の崇拝するものから自立ができない"大人の顔をした未成熟な子供"」「いつまでも乳離れできない大人」という様に感じてしまい、他人事ながらちょっと恥ずかしく感じます。

(^^;;

 

そしてそれと同時に、「何故こういう方達は何かを伝える時に、他人を使わず"自分の言葉"として伝えられないのだろうか?」と、同じ大人として少々情けなく思うのです。

 

自分以外のものを崇拝し利用する事が「自分を謙虚に見せる事ができる」と勘違いされておられるからなのでしょうか?

(・・)???

 

 

 

何故ならもしその様な伝え方をすれば、それは無意識であっても「自分が利用したもの(=尊敬するもの)に責任転嫁できる」という事にも繋がっている訳で、そうして自己責任を持たなくて良い分、言い訳や言い逃れという責任回避もできますし、或る意味「卑怯な手段」として使えるという一面も持つからです。

 

依存心の強い人ほど何かを履き違えてしまう事も多く、「自分の尊敬する人がそうしていたから、自分もそうする事が当然許される」という"エゴから生まれる勘違い"を生む行為にも成っているからです。

 

人が人を尊敬・敬愛する事自体は美しいものであり悪い事ではありませんが、自分が尊敬する人物と自分を「同化してしまう」というのは、私は何かが違うのでは?と感じるのです。

 

何故ならそれがどの様な関係であれ、お互いに別の人格(個性)であり、人生経験も立場もそれぞれ違うからであり、そこにその方自身の"オリジナル(自立した個性)"というものを観る事ができないからなのです。

( ・・) ~ ☆彡&★彡

 

自分が尊敬する方であれ誰であれ、私達人間というのは神ではなく皆未熟である訳ですから、自分以外の何かと同化するという錯覚は(※本当はそれは"何かに同化したい側の妄想"に過ぎないのですが。だって別人格なのですから…)、

 

強いては、その自分が同化したいと望む人物の「人間として成長できていない部分」「人格を磨き切れていない部分」までをも真似する様になる訳で、それが自分にも許されると勘違いする=自身の人格の成長が阻まれるという事にも繋がっているからです。(※それは"自分の人格を磨かない言い訳"としても利用できます)

(・・;)

 

 

 

こういう「誰かに依存する行為」を反対から観れば、そういう方達は「自分がその様に頼る(※依存・利用する)ものを使わないと自分を語る事ができない=そういうものを全て外した"素の自分"に自信(存在価値)が持てない」という事の裏返しでもあり、

 

自立した人間からすると、それは本来持たなくて良い(←※ここ重要ポイントです!)未熟な感覚であり、真の大人とは言えない行為でもある故に、私は同じ大人としてそういう「自分を表現する時に、何かに依存する行為」を少々残念に思うのです。

(^^;(^^;;(^^;;;

 

先にも申しましたが、そういう方達が依存し利用する「自分が尊敬する人物」を"敬う気持ち"は美しく、それは"人として"自然な感情でもあり、又とても大事な事でもあり、又その対象が世間的に知名度が高い人や有名人であればあるほど、ビジネス的にはそれが大きな商品価値を生むという事があるので必要という場合もありますが、

 

どの様な看板を掲げていたとしても、最後はやはり人の魅力や評価というのは「その人自身の自立した才能と人格」になる訳ですから、その様に他者に対してまるで自分の教祖かバイブルの様に依存し、「自分の為に利用する存在に仕立て上げる事」は、果たして美しい事なのでありましょうか?尊敬される行為なのでありましょうか?

 

…という事を考察したいと思って、今回のコラムのテーマに致しました♫

(^^✿

 

 

これは私の個人的な見解ですが…。

 

どんなに自分が尊敬している方であっても、「その方と自分は(※どちらが上とか下という事ではなく)、違う人格(個性)と使命(立場)を持った人間である」という視野がないと、

 

結局そういう方の生き方というのは、「自分が崇拝する人物と同化できている様な"独り善がりな錯覚"」に陥りがちで、何かを語る時に「虎の威を借る狐」の様になってしまう事が必然的に多く成って行きます。

 

そしてそれは自分で知らず知らずに、「自分ではないもの(※崇拝者)を自分のオリジナリティーの代わりに頼り、それに依存・利用する様な(※或る意味傲慢な=自分を尊重しない)生き方に終始する人生を送る事に成って行く」という事にも気付けなくなり、

 

即ちそれは、その方の人生が単なる「自分が尊敬する人物の物真似=コピーをしているに過ぎない」という事にも成っている事に気付けなくなるのです。

( ・・) ~ ★彡

 

 

 

私は自分の人生で、特に芸術に携わる方達や宗教に関わる方達=何かに盲目的に傾倒される方達を観る機会も多かった為、こういうタイプの大人の方達を沢山目にして参りましたが、この様な生き方をされておられる方達には特徴があります。

 

それは表面上のプライド(見栄)は人一倍高い半面、内面には非常に強いコンプレックスを抱えて生きておられるという事実です。(コンプレックスが強いから"エエかっこしいの見栄を張る"とも言えます)でもそれは私からしたら当たり前なのです。

 

何故ならそういう生き方をされる方は「自分が憧れ尊敬する人物の様に、自分も成りたい!」と望むあまりに、「自分の創造性=オリジナリティー」というものをどこかに置き去りにされていて、

 

それ故に"本当の自分の自信と誇り"には繋がる事ができないという事が一つ。(※だからこういう方達はその反動で、他者に自分をチヤホヤと煽ててもらう事を非常に好みます)

 

もう一つは、こういう生き方を選択するという事は、反対から観れば「自分は、自分の崇拝する人物を超える事はできない」という無意識のコンプレックスが、絶えず自らを苛んでいるという事でもあるので、それは当然だという事なのです。(※でもこれは、視野を広げて"人間の人生"というものを観れる様になれば、間違ったものの見方だと気付けるはずなのですが…)

(^^;

 

 

 

それと同時に、こういう方達はいつも心の中で(※自覚有る無しに関わらず)「自分から自分の崇拝する存在を除いたら自分が維持できなくなり、人は自分から離れて行くのではないか?」という無意識の不安をいつも自分の中に抱えるという事にも繋がり、

 

そういう「お化粧(※他者への説得の為に、自分の崇拝者の力を借りる事)ができない"本来の自分"というものへの自信の無さと直面する恐怖」というものと、絶えず自分が戦う羽目に自動的に成ってもいるのですから当たり前なのです。

\(◎o◎)/!

 

そういう方はそれがバレない様に、或いはそういう自分の不安をカモフラージュする為に、表面的には(人によっては、そういう事への自覚なき)物凄い努力家であったりするという特徴もあるので、多くの方はなかなか見抜けない様なのですが…。

(^^;;

 

 

 

ちなみにそういう方の見分け方としては、自分を大きく見せる為に見栄を張り意地を張る=自分の非を頑固に認めないという特徴があります。(※人間はお互い皆完璧ではないというのに、何故そこまで頑なになるのか?というのも、自立した人間にはとても不思議に感じる行為の一つなのですけれどね~)

(^^;

 

自立した大人の方=キチンと自分の個性と役割を理解した大人の方は、誰かを崇拝し尊敬されていたとしても、そういう稚拙な態度にはなりませんし、そういう自立できた方が自分の尊敬している方の事を語る時は本物の愛が在り、聞く側には「崇拝者を利用する」という利己的行為から来る違和感がないので、非常に心地良く感じます。

 

だって「人が人を尊敬できる」って、この世で一番素敵な事ですからね~♡

(*^^*) ~ ♡

 

誰かを崇拝する・しないに関わらず、そこがその人が「乳離れできているかどうか?=自分のオリジナリティーを謙虚に知り、それを自分自身で大事に尊重する方かどうか?=自分が尊敬する方に感謝と敬意を持ちながらも、その方から自立した"自分の言葉"として語れる大人の方であるかどうか?」を見分ける大きなポイントになるでしょう。

(^^✿

 

自分の個性とオリジナリティーを大事にされる方は、自己責任を持つという事から培われる「自信と謙虚さ」を合わせ持たれているので、人間的に非常に大きくて誠実で魅力的な方が多いですし、又そういう方は本物の人が持つ優しさと厳しい面の両面=人としての品位・品格に通ずるものも中に必ず持ち合わせていらっしゃるはずです。

(*^^*) ~ ♡

 

 

 

反対に"乳離れできていない方達"というのを拝見させて頂くと、彼らはまるで「それ(自分が依存・利用しているという事実)を認めたら、自分が無くなってしまう」とでも云わんばかりで、

 

それ故"言い訳の天才"であったり、ご自分の言った事に責任を持たずに"他者に責任転嫁する才に長けている"のでありましょうとも思います。(ちなみにこれは、ご自分が崇拝されている方の特徴でもあるから、それをご自分もコピーされておられるという事なのでしょうか???)

 

いくら頭で打ち消して屁理屈をこねても、そういう生き方を変えない限り、そういう乳離れできていない人達は、その自分の中に巣くった根深く苦しいコンプレックスから逃れる事はできないのです。何故かと言うと「頭で誤魔化せても、魂は誤魔化されない」からなのですね。

( ・・) ~ ☆彡

 

肉体を持った私達人間は、元来はとても怠け者なので、つい安易な道(=他者を模倣する人生)を選んでしまいがちな性(サガ)を持っているのですが、

 

でも"魂"というものは「人格の成長」を望んでいるので、決してその様な「他者を崇拝し過ぎて、自分のオリジナリティー(人格・個性)を蔑ろにする生き方」を望んでいないのです。

( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡

 

「どんなに才能に恵まれていたとしても"魂が望まない生き方"をすれば、当然自分に本物の自信が持てなくなってしまう」というカラクリがこの世には在るという事を、以上の説明で皆様にはご理解頂けましたでしょうか?

(^^ゞ

 

私達人間というものはエゴな生き物なだけあって、なかなか謙虚になる事ができずに、つい「エゴが見栄を張りたがる」という性(サガ)を持つ"ややこしい動物"でもあるのだという事を、今回の考察から自分にも他人にもご理解頂けましたならば幸いです!? (笑)

☆_(_☆_)_

 

 

 

私達は皆、自分に関わる周りの方達に、お互いに影響を与え合います。

 

お互い「自分の中に無いものは、他者に与えられない」という事を考えた時に、「自分に本物の自信を持てている=自分のオリジナリティーを大事に愛せる人」が他者に与える影響と、そうでない人が周りに与える影響は自ずと質が違って来るので、

 

だからこそ私達は自分が崇拝するものへ尊敬はしても依存せず、自分の為にも他者の為にも各自が自立した上で、「自分はどういう生き方をしているか?」という事が問われる様に私は感じているのです。

☆_(_☆_)_☆

 

 

 

 

 

 

ママ~、おっぱいちょうだい♡

これが似合うのは、私達はいくつまで?(笑)

 

 

 

私は自分の人生を振り返っても、「〇〇出身」などという経歴に頼らずに、"大園エリカ"で通用するオリジナルな生き方、「鶏口となるも牛後となるなかれ」を若い時から貫いて来れたのが、自分の誇りでもあります。(一応、芸術家の端くれですので。笑)

☆_(_☆_)_☆

 

この道は自分で選んだとは言え、結構棘の道でもありましたが(笑)、今の私は数々の試練を乗り越えて、バレエという枠をも超えた「真実を見抜く眼」や「真理を俯瞰で理解できる感性」を培えた自分が自分で誇らしく思うのです。

 

でもそれは、私の人生にご縁のあった全てのものが、今の私の血肉になっている訳ですので、私は人生の先人の方々含め、全ての存在に対しての感謝を常に忘れた事はありません。

☆_(_☆_)_☆

 

でもその先人の方々がもし偉大な"本物の師"であるならば、その方は自分の持っているものを全て与えた後に自分に依存させる事無く、「お前はお前自身の人格と個性を尊重し、お前からしか生まれないオリジナルの人生を歩め」と諭されるに違いありません。(※本物の芸術家であるなら尚更です)

 

「"学ぶ"は"真似る"から来ている」と言われますが、「習う」という事は、最初はそこからしか入れないという事でもあり、どんな天才であっても、まずは「師が伝えるものを習得する事が最初である」というのが物事の自然な順序=本物の伝統に成って行くのだと私は思いますが、

 

でもそれと同時に、どの様なものでも最終的には「弟子が自分のオリジナルのスタイルを持つ」という所に到達しなければ、それは本当の学びにはならないものだと私は思います。

 

それが"本物の愛"というものだと私の魂は感じていますし、もし私も「誰かの先人」という立場であるならば、同じ事を伝える師でありたいと思います。

☆_(_☆_)_☆

 

 

 

ちなみにこれは自分の事だけではなく、私は「プロフィール」というものは、あくまでもその人の参考資料の一つにはなりますが、私は常に「肩書きで人を見ない」という眼が若い時からしっかり持てており、

 

常に「他者の評価はどうであれ、"自分の眼でその人の才能と人格を視る"」という事を欠かした事がありません。(※才能と人格を一緒くたにしない所も、自分も含めて「人を観る時」には大事なポイントになります)

 

ですが私がこういう視野が持てるのは、「自立した生き方を選択した人」にしか持てない眼を持っているからではないかと自負しています。そうでなければ、そういうものを見破る眼も自分に持てないと私は思うからです。

 

人のコピーをする様な生き方=乳離れが出来ない人生を選択されておられる方達は、"紛いものと本物を見抜く眼"、或いは"才能と人格を一緒くたにしない眼"というものを磨く事は、なかなか難しい事の様に私は感じています。

 

何故なら、自分の中に無いもの(自立できていないもの)は、他人の中にも(自立したものか、物真似かを)見抜く眼は持てないと思うからです。

( ・・) ~ ☆彡☆彡☆彡

 

 

 

皆それぞれのオリジナリティーは、お互い他者と比べようのない素晴らしいものであるのに、そこに気付かず他者(※自分の崇拝者含む)を持ち上げる事で自分の個性を蔑ろにしてしまうという種(たね)は、

 

「自ら持たないで良い劣等感や自己否定、そこから生まれる傲慢さから、酷い人は罪悪感まで生み出してしまう」という果実にまで行ってしまうという視野を、一体どのくらいの方達がお持ちなのでしょうか?と私は思いますし、

 

同時にそういう生き方は、その方が崇拝する存在から「果たして本当に喜ばれる生き方なのか?」という視野も必要になるのではないか?という事まで私は考えてしまうのです。

 

もしその様なものを喜ばれる方なのだとしたら、その方は人を育てる"本物の師"ではないという事であり、

 

そういうものを良しとされる方は、視野が狭いが故に本当の自分を受け入れる事ができずに「持たなくて良いものを持ってしまった方=罪悪感や自己否定から来るコンプレックスを抱えた方」であり、その歪んだ"負の波動"という重たいものをエネルギーにされて生きる方だという事が、私は断言できます。

"(-""-)"

 

どの様な関係であろうと、私達はお互い「自分の中に持っているものしか、他者に差し上げる事はできない存在」なのですから、結局どの様な生き方をしようとも、最終的には「どういう自分が心地好く感じるか?=自分は他者に何を与えたいのか?」という所に行き着くのです。

 

それにより、負のエネルギーを栄養にされる方と、そうでない方との"住み分け"というものが私達の生活の中に必然的に生まれて来る訳ですね!何故なら、波動の軽いものをエネルギーにする人は、波動の重たいエネルギーに取り囲まれると苦しいと感じますし、逆も又然りだからです。

 

鳥は空を飛ぶ事で生き生きとするし、魚は水の中でないと死んでしまうという様に、どちらが良い・悪い、優れている・劣っているという事ではなく、それぞれ自分を生かせる場所や生きる世界が違うという事なのです。

( ・・) ~☆彡 or ★彡

 

尚、以前にも今回のテーマに共通する内容として、「他人のコピーする人は、コピーした人を超える事はできない」というコラムを書いた事がございますので、興味のある方はこちらもどうぞご参照下さいませ♫

☆_(_☆_)_☆

 

 

 

ちなみに私は人に何かを伝える時は、自力で努力し理解習得したものを身に付けた"自立した一人の大人"として、"自分の放つ言葉"には自分で責任を持ちたいので、決して「他人(=自分が尊敬するもの)を笠に着る」という様な伝え方は致しません。

 

何故かというと、私は「自分にも相手にも"誠実でいる=ハートで接する"」という事を自分に望むからなのです。

 

そうして自己責任を持った分、自分が放つ言葉やメッセージには心がこもる訳ですから、自分の為にも相手の為にも「相手に伝えた事の大事なポイントは自然に覚えている」というのが、他者を尊重し大事にする事に繋がる"人としての礼儀"でもあると私は思っています。 

 

人格を磨けば磨くほど感受性は豊かで繊細に成って行くので、覚醒した方というのはいつも"今"に意識が在る訳ですので、自分が心を込めて伝えた分、或いは人の話を真心で聞く分、大事なポイントは忘れる事はないのです。

(*^^*) ~ ♡

 

気まぐれ的に言った方は安易に忘れていても、「言われた方は残る」のですから、そういう小さな事でも積み重なって行くと、それはやがて「人に恨まれる」という事にも繋がって行きますしね~。

 

ちなみに「人から恨まれる人間」というのは、自分の才能の為に「他者の人格を蔑ろに扱う人格」を持った人間の事を指します。

 

人を指導し諭す行為も、もしそれが"宇宙の法則に則った本物の慈悲からの行為"であれば、いずれはどこかで理解されますから、最終的に「人から恨まれる」という事には繋がらないのですね。

 ( ・・) ~ ☆彡

 

 

ちなみにこれは余談になりますが…。

 

非常に才能に恵まれ、努力の天才と言われながらも、いつしか私に取っては「乳離れできていない大人」「私に取っては"素晴らしいダンサー"であっても"自分を持った本物の芸術家ではない"」と目に映る存在でもあった、当時私の先生格であった先輩の方は、

 

現在、とても素敵とは言えない一種異様な年の取り方(人相)をされておられて、私はとても残念に感じています。

 

その方とのご縁からの"卒業"というものを得た後に、私はその方の舞台を観に行くという事や、ネットで調べるなどという事は今まで全く無かったのですが、先日たまたまそういうものをネットで偶然お見掛けする機会があり、久しぶりにその方の写真を拝見した時、言葉は悪いですが、まるで「生きながら妖怪になられてしまった様な人相」に成っておられて、私はある種の衝撃を覚えました。

 

当時若かった私は、その先輩をとても尊敬していましたし、当時は自分が目標にさせて頂いた存在であり、今振り返って見ても、「自分を高める事ができた偉大な存在」として先輩の方でもあったからです。

 

でも今のその先輩のお写真から私が感じ取れる「知性の欠如から生じた精神の病から生まれる苦しみ」と、その悲壮感漂うお姿(人相)を拝見すると、若い頃に私が感じていた感覚(※住み分け)は間違っていなかったのだとも自分で思います。

 

又取材などでインタヴューに受け答えされるその先輩の答えが、未だに何十年前と全く同じで変わらないというのも私には異様で、私はそこに「どこかで成長が止まって老化してしまった先輩の生き様=ハートの欠如」を感じ取るのです。

 

 

 

これは余談の余談になりますが…。(※これを書いていて思い出した事があります)

 

何年前でしたでしょうか? 或る霊能者の方が、その方を私の先輩とは知らずに「テレビで観た」という話を偶然私にされた事があり、その時私は「その方は私の先輩に当たる方です」とだけお答えしただけでしたが、

 

彼女は「この方を画面で観た時に、色々なものがこの方から沢山ぶら下がっているのを見た」と顔を歪ませて語られ、「この方、多くの人に凄く恨まれているね。この方は死ぬ時に凄く苦しむね!」と仰られたのです。

\(◎o◎)/!

 

私は「自分の人生にご縁の有った方全てが、私の才能と人格を育ててくれた存在」と捉えているので、私自身は先輩には感謝しかなく、ちょっとビックリしたのですが、

 

自分の恵まれた才能にかまけて"人として、自分の人格を磨く事(ハート)"を忘れ、自分の才能の為に他者の人格を蔑ろにして「他者を利用し続ける生き方(※これは先輩自身が自覚され、自ら周りの人に公言されおられた事でもあります)」を選択された方達というのは、短命であったり、その最期が苦しみに満ちたものに成ってしまうのかもしれませんね。

 

私はそれを聞いた時、「それが"宇宙の法則(※人に与えたものが己の受け取るもの)"に則した先輩の人生の"果"であるならば、仕方ないのかな?受けるしかないのかな?」とも感じ、ちょっと複雑な思いの自分がおりました。

 

そして「自分は死ぬ時に、どうであろうか?」という事も…。

( ・・)・・・

 

 

 

ちなみに"人から恨みを買う時"というのは表面上は色々なケースがあると思いますが、その根本は「自分の人格を蔑ろにされた」という事からしかないのではないでしょうか?

 

そしてこういう事を他者にできる人間は、「何かから乳離れできていない=自分の人格を育てられない」という、或る意味「とても傷付き、痛んだ心を持っている人間」ではないかと私は思います。(※でも傷付くという感覚もエゴから生じる"錯覚"なのですが…)

(^^;;

 

" 傷つく " という感覚 ①

" 傷つく " という感覚 ②

" 傷つく " という感覚 ③

" 傷つく " という感覚 ④(最終回)

 

 誰もあなたを責めていない。責めているのは自分自身

「もうこれ以上、傷つきたくない」という方達への処方箋

 

この様に「人格」というものは、私達が自覚している以上に私達に大きな影響を与えているものでもあり、それだけ人間に取っては非常にデリケートなものでもあるという事ですね。でもだからお互い「それぞれが自立(乳離れ)して、お互いに人格を磨き合う」という事が人間には不可欠になるという事なのです。

 

自分とは別人格の誰かを崇拝し過ぎて、他者に自分の中心を明け渡し同化して生きる人間は、必ず精神を病んで行くというのが自然の摂理でもあります。

 

そういう生き方は「自分の人生を生きる本当の喜びから自分を遠ざけてしまう行為」なのですから、当然なのです。

 

☆_(_☆_)_☆

 

 

 

 

 

 

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