大園 エリカ
オオソノ エリカ犠牲と奉仕の違い
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前回のコラム「アナと雪の女王」の中で "犠牲と奉仕" の違いに付いて触れましたので、今回はその事に付いて私の感じる事をお話ししてみようと思います。(^^♪
(今回も映画のネタバレ含むになりますので、これから映画をご覧になる方はスルーして下さい!?(笑))
"犠牲"というのは、誰かや何かの為に自分を押し殺して、我慢したり耐え忍んだりする事ですね。これは他者には助かりますが、自分は苦しく辛く悲しいイメージ。
"奉仕"というのは 、自ら望んで能動的に他者に与える行為なので、自分も相手も気持ちの良いイメージ。
つまり自分から能動的に与える行為が「奉仕」で、一見与えている様に見えて、実は自分は受動的に仕方なく与えざるを得ない様な行為になる事が「犠牲」というイメージが私にはあります。
結果的に行為として同じ事をしていても、その根に有るものが「奉仕」であるか「犠牲」であるかとでは、それにより生み出されるものが大きく変わると私は感じます。
根が「奉仕」であればお互いの中に感謝と喜びが生まれ、根が「犠牲」であるならお互いを苦しくするものだという事が、この映画「アナと雪の女王」では、実に見事に表現されています。
そして何故最後に「あのアナの、エルサを救う行為が凍った街を溶かしたのか?」という所ですが、その秘密は、アナが小さい頃の記憶を消されていたという所にあると私は感じました。(非常に良く考えられているストーリーです。さすがディズニー!☆彡)
もしアナが過去の経緯を全部知っていたら、自分の為に犠牲になってくれた姉に対して、どこか罪悪感を持ってしまったでしょうし、姉を助ける尊い行為もそのお返しとしての、やはり犠牲的なものになってしまいますからね。
妹のアナは記憶を消されていたので、何故姉がそんなに自分を避けるのかが理解できない。又姉のエルサはエルサでそれが愛する妹や周囲の為という思いからの行為(犠牲)でしたが、それはエルサに取っては本当の自分を表現できないという、彼女に取っては不自然で本当は不本意な行為ですから、結局長くは持ちませんでした。
記憶を消されたアナに取って姉は、自分を疎み避け続ける存在であるにも関わらず、その姉の為に最後に自分の命を擲(なげう)って彼女を助けようとする行為が "奉仕" の行為になっているからこそ、凍った街を溶かす事ができたのだと私は解釈致しました。
姉に避けられていても、アナが姉を信じられたのは、きっと姉の行為の根本に、妹への優しい気遣いが存在したからなのでしょう。
理由は知らなくとも、アナにはその優しさを感じられる感性があったのですね。
最後はその姉や周囲の大人達から守られ愛されて来たアナが、自分の為に犠牲になってくれた姉を奉仕の心で守る事ができたのは、その根に人から愛された者が持てる、愛と勇気が育まれていたからなのだと思います。
そしてこの物語が恋愛物語ではなく、姉妹愛として描かれている所も、より奉仕の精神を際立たせる要因になっていると感じた私なのでありました。(;_;)~ ♡